感情という名のチョウミリョウ
2004年5月21日 〜頭の中の世界〜ちょっと今日、「笑い」について考えてみたりした。
まぁ、あれっすよ。恋愛が好きな人が「愛って何?」と考えるのと一緒だ。
フラミンゴが「何で俺ら足曲げなアカンの?」って自問自答してる、それと一緒。完全一致である。
「笑い」それは結構複雑な感情なのではないかと思う。
「愛」「幸せ」「孤独」「苦悩」これらが難しい感情と同じように、「笑い」だって難しいものだ。
例えば、世の中に「おもしろい人」「おもしろくない人」と2種のカテゴリーは存在しうる。
そして、不思議と「おもしろい人」が言った事を理解できるのは「おもしろい人」であり、「おもしろくない人」の言った事でも楽しめるのが「おもしろくない人」なのである。
これはどういう事なのか?
人には能力というモノがある。
手が器用である人もいれば、運動が得意な人もいる。
同じ様に「おもしろい事を言う」という能力を持っている人もいる。
では、おもしろい人というのはどういう人なのか?
簡単に言うと語彙力、表現力、そして想像力の3つを駆使して「おもしろい事」が言えるのではないだろうか。
人によって、それぞれの力が飛びぬけていたり、足りなかったりするのだろうが、平均的にこの3つの能力は、「笑い」を提供する人にとっては必要不可欠なモノであると、俺は思っている。
尚且つ、頭の回転というのも、この3つの能力を瞬時に引き出す上で大切なものであるという事は確かだ。
だから、俺はこう思う。
「おもしろい人」は、瞬時に頭の中で自分の言った事が絵に描け、それを多彩な言葉で色づけながら表現できる人であると。
「おもしろい人」はよく笑うと思った事はないだろうか?
何の変哲もない事に笑ってしまう人におもしろい人が多いのではないかと思った事はないだろうか?
俺は、結構頻繁にそう思うのだが。
それはきっと、誰かが言った、何か些細な事に対してでも、自分の頭の中で想像し、おもしろく理解しているからなのだと俺は思う。
つまりだ。
「おもしろい人」というのは、「おもしろい事を言う」という能力をもちつつも、同時に「おもしろさを受け取る」という能力も兼ね備えているのだと、俺は解釈する。
よって、話を戻すと、「おもしろくない人」というのは「おもしろい人」の言った事を受け止めれる能力が欠如していたりするのだろうかと思ったりもする。
だが、ここで一つ注意しておきたい事がある。
「おもしろさ」を感じるのは人それぞれ基準が違うので、程度も違うと言う事だ。
「笑い」の基準など、人それぞれだという事だ。
俺はここで「おもしろくない人」と言ってはいるが、このカテゴリーに入る人達は「おもしろい人」の言っている事をおもしろくないと感じるかもしれない。
そして、「おもしろい人」を「おもしろくない人」と呼ぶかもしれない。
ただ、一般的におもしろい人は?
と聞かれた時に、やはりお笑い芸人があがるだろう。
歌手があがるだろうか?役者があがるだろうか?
多少はそういう意見があれど、やはり多くの人の「笑い」という感情をつかめるのは、その部門のプロであろう。
大きく2つに分けてみたが、その差というものは、人それぞれであり、だからこそ、多くの人の「笑い」という感情に触れる事ができるというのは難しいもので、その数が多いという事はすばらしい事なのではないだろうか?
感情に答えなどはない。
定義など専らないだろう。
ただ、自分自身が笑顔絶やさず、笑える事で毎日が楽しいのならば、それが本当の笑いなのかもしれない。
そんな笑いをあげれる人が、本当の「おもしろい人」なのかもしれない。
ただ、こんな事を考えていたら、夜になっていたってゆーのは、実際どうかとは思うが。
そして、書いてみたものの、もし意味が分からなかったら、尚更である。
この悲しさはどこのぶつければ良いのだろうか。
ウッチャンナンチャンのどっちがボケでどっちがツッコミか分からないぐらい寂しい結末であろう。
TYPE S
まぁ、あれっすよ。恋愛が好きな人が「愛って何?」と考えるのと一緒だ。
フラミンゴが「何で俺ら足曲げなアカンの?」って自問自答してる、それと一緒。完全一致である。
「笑い」それは結構複雑な感情なのではないかと思う。
「愛」「幸せ」「孤独」「苦悩」これらが難しい感情と同じように、「笑い」だって難しいものだ。
例えば、世の中に「おもしろい人」「おもしろくない人」と2種のカテゴリーは存在しうる。
そして、不思議と「おもしろい人」が言った事を理解できるのは「おもしろい人」であり、「おもしろくない人」の言った事でも楽しめるのが「おもしろくない人」なのである。
これはどういう事なのか?
人には能力というモノがある。
手が器用である人もいれば、運動が得意な人もいる。
同じ様に「おもしろい事を言う」という能力を持っている人もいる。
では、おもしろい人というのはどういう人なのか?
簡単に言うと語彙力、表現力、そして想像力の3つを駆使して「おもしろい事」が言えるのではないだろうか。
人によって、それぞれの力が飛びぬけていたり、足りなかったりするのだろうが、平均的にこの3つの能力は、「笑い」を提供する人にとっては必要不可欠なモノであると、俺は思っている。
尚且つ、頭の回転というのも、この3つの能力を瞬時に引き出す上で大切なものであるという事は確かだ。
だから、俺はこう思う。
「おもしろい人」は、瞬時に頭の中で自分の言った事が絵に描け、それを多彩な言葉で色づけながら表現できる人であると。
「おもしろい人」はよく笑うと思った事はないだろうか?
何の変哲もない事に笑ってしまう人におもしろい人が多いのではないかと思った事はないだろうか?
俺は、結構頻繁にそう思うのだが。
それはきっと、誰かが言った、何か些細な事に対してでも、自分の頭の中で想像し、おもしろく理解しているからなのだと俺は思う。
つまりだ。
「おもしろい人」というのは、「おもしろい事を言う」という能力をもちつつも、同時に「おもしろさを受け取る」という能力も兼ね備えているのだと、俺は解釈する。
よって、話を戻すと、「おもしろくない人」というのは「おもしろい人」の言った事を受け止めれる能力が欠如していたりするのだろうかと思ったりもする。
だが、ここで一つ注意しておきたい事がある。
「おもしろさ」を感じるのは人それぞれ基準が違うので、程度も違うと言う事だ。
「笑い」の基準など、人それぞれだという事だ。
俺はここで「おもしろくない人」と言ってはいるが、このカテゴリーに入る人達は「おもしろい人」の言っている事をおもしろくないと感じるかもしれない。
そして、「おもしろい人」を「おもしろくない人」と呼ぶかもしれない。
ただ、一般的におもしろい人は?
と聞かれた時に、やはりお笑い芸人があがるだろう。
歌手があがるだろうか?役者があがるだろうか?
多少はそういう意見があれど、やはり多くの人の「笑い」という感情をつかめるのは、その部門のプロであろう。
大きく2つに分けてみたが、その差というものは、人それぞれであり、だからこそ、多くの人の「笑い」という感情に触れる事ができるというのは難しいもので、その数が多いという事はすばらしい事なのではないだろうか?
感情に答えなどはない。
定義など専らないだろう。
ただ、自分自身が笑顔絶やさず、笑える事で毎日が楽しいのならば、それが本当の笑いなのかもしれない。
そんな笑いをあげれる人が、本当の「おもしろい人」なのかもしれない。
ただ、こんな事を考えていたら、夜になっていたってゆーのは、実際どうかとは思うが。
そして、書いてみたものの、もし意味が分からなかったら、尚更である。
この悲しさはどこのぶつければ良いのだろうか。
ウッチャンナンチャンのどっちがボケでどっちがツッコミか分からないぐらい寂しい結末であろう。
TYPE S
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